不安と信仰

”あなたも離れていくのですか?”

聖書の中の、イエスの言葉(ヨハネ6:67)が胸に突き刺さった。

イエスは病気や障害のある人たちを癒し、悪霊を追い出し、死人を生き返らせ、飢えた人たちに食を施し、人気を集めた。イエスの行くところにはいつも大勢の群衆が集まって、奇跡を求めた。

でも、イエスが、「地上での奇跡は一時のこと、いずれは皆死んで行く。天の父の意志により地上にやってきた私を信じ、永遠の命を受けとりなさい。私は命のパンです。」と、説き始めると、「神の子だなどと、なんと大それたことを言うのだ!」「命のパン???欲しいのは本物のパン、奇跡!」と、群衆の熱はたちまち冷めていく。そして、興味を失いイエスから離れていった。

「あなたたちも離れていくのですか?」とは、残った12人の弟子にイエスが言った言葉だった。

 

人にはいつも願望がある。

癌が完治しますように。

傷害や病が治りますよう。

愛する人が死にませんように。

いつまでも健康で、事業が成功し、家族が幸せに過ごせますように。。。

 

奇跡を追い求め、願を掛けるのは人の性なのだろう。でも、一つ願いが叶っても、心配や不安は後を絶たず、死は必ずやってくる。

 

聖書は、死は人が神から離れ、自分勝手に生きることを選んだ罪の代価だと教える。その代価は、人が善行をどれほどおこなっても償いきれない。天地を創造された神が、その一人子イエスを犠牲にして、はじめて償われた莫大な代価だったと。

泡のように時とともに消え去る奇跡だけを求めるのか?それとも、命をくださった天の父との関係を修復し、永遠に生きられるよう、身も心もえぐられるような犠牲を払ってくださったイエスを信じることを選ぶのか?

イエスにのところに昼夜を問わず集まって、歓声をあげ、イエスを褒めたたえた何千という群衆が、波がひくように去って、わずか12人の弟子だけと取残されたイエスを想像する。その12人の弟子たちも、イエスがローマ軍に捕らえられる時には、いずれ裏切って誰一人、彼のそばに残ることがないことを知っていたイエスの心の内を想像する。

命の恩人の言葉、

「あなたも離れていくのですか?」は、死に衰えていったペパーが、私を見つめた大きな瞳と重なって、胸を締め付けた。

「いいえ、何ごとがあっても、たとえ癌が戻ってきても、災いが後をたたなくても、貴方にどこまでもついていきます!」イエスにそう答えずにいられなかった。

それから、末期を迎えている癌闘病家族のことが頭に浮かんだ。

祈ること以外、何ができるのかわからない。でも、それだけでも伝えよう。彼らから遠ざかることなく、涙を流している家族と共に時間を過ごそう。

私の答えを聞いたイエス様が、それなら。。と、私に仕事をお与えになったような気がした。

 

 

 

突然にイスラエル旅行

いつか行きたいと夢にみていた聖地イスラエルに、2月18日から10日間行くことになった。

イスラエルは、聖書によれば、「乳と蜜の流れる土地」として、紀元前約2000年、神がアブラハムに与えた地。この土地から、アブラハムの子孫が夜空の星のように増えていくことを、神は約束し、それから2000年後、救世主イエスが生まれた。

なのに、この国は建国から今にいたるまで戦火が絶えない。おまけに私は抗がん剤続行中だし、夢の旅行話が具体化することはなかった。

それが、先週、ジョージと同じように牧師をしている義理の弟夫婦から、彼の教会でイスラエルツアーを計画しているけれど、空席があるから一緒にいかないかい?と誘われた。

今年の3月で結婚20年の節目を迎える記念にイスラエルへ行けたらいいね、と、幾度となく話してきたジョージと私は、予期せぬ誘いにびっくり!

このツアーを毎年恒例行事として続けていると言う義弟によれば、緊張している危険な場所はごく一部に限られているから、そこさえ避けたら、あとは、何も問題がないと言う。

「何度行っても、感激して、心が洗われるよ。」

「イエスの最初の奇跡、結婚式場で水をワインに変えた場所、カナでは希望者に結婚の誓いを立て直す式を施すんだ。20周年記念を迎えるなら、二人も誓いを立て直したら良いよ。」とまで言われ、ジョージと顔を見合わせる。

「これホント?夢じゃない?信じていいの?」

「棚からぼたもち」「渡りに船」とは、このこと。旅行費用はコツコツと貯めてきたし、ジョージも休みが取れると言う。問題は、抗がん剤を受けてる私の体。

さっそく主治医にメールで相談してみた。

「すばらしいじゃない!二回目の点滴が旅程と重なるけど、帰国してからにずらせば良いから、行ってらっしゃい。」と、うれしい返事がもどってきた。

それでも、29日から始めるパージェタの副作用が気になってなかなか決断がつかない。向こうで体調崩したら嫌だし、と思いつつ人とこのイスラエル行きの話をしていると、気持ちがどんどん「行く」という方向に傾いて、こんなチャンスは2度とないと、ついに行くことを決定!

そう決めたら、うれしくて、副作用の心配もどこかへ飛んでいってしまった。

聖地を訪れたら、癌完治の奇跡も起きるかもしれないーーそんな希望さえも湧いてきた。

こんなに突然、簡単にイスラエル旅行が実現するなんて、これも神様からのギフトとしか思えない。

神様はいつだって素晴らしい!

イスラエルの旅:6)二つの石

10日間のイスラエル旅行から無事帰宅した。

イスラエルからのおみやげに2つの石が含まれている。

カイザリア(Caesarea)の石

一つはエルサレムに神殿を立て直したヘロデ王が、当時の統治国ローマのために造った港町カイザリアで拾ったもの。

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ヘロデ王はユダヤ人でありながらローマ帝国信奉者で、地中海に面したこのカイザリアに、プール付きの宮殿や、ローマ人が好む、円形劇場や競馬場、競技場等を含む町を造った。

Remain of the palece

大豪邸と競馬場跡 後ろに見えるのはこれもヘロデが造った港跡

Roman Theaterガイドによると、ヘロデ王もローマ人も大変残虐で、演劇のシーンに目をくりぬく場面があると、舞台の上で、奴隷をつかって、本当に目をくりぬいたり、劇場の回りに水をはって、ワニを離し、観劇に退屈すると、奴隷を投げ込んで喜んでいたと言う。

 

聖書には、ローマ帝国の圧政と迫害にあえぐユダヤ人たちが、イエスが生まれる千年ほども前からの予言の成就——救世主の到来を待ち望んでいたと書かれているけれど、遺跡の規模の大きさに、ローマ帝国の威力を感じ、納得と思った。

ここで拾った石は、苦痛と試練のシンボル。

 

ガラリヤ湖( Sea of Galilee) の石 

もう一つの石はガラリヤ湖畔、イエスの弟子ペテロが復活したイエスと出会った場所とされるところのもの。

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イエスがローマ兵に逮捕される前の晩、彼は弟子たちと最後の晩餐をする。

自分はこれから捕まり、虐待を受け、十字架にかけられること、でも弟子たちは皆逃げていくことを告げると、熱血青年だったペテロは「そんなことは絶対にありえません!」「他の皆が裏切ろうと、私はあなたと死の底までも一緒についていきます!」と啖呵を切る。

そんなペテロにイエスは、「貴方は鶏が鳴く前に私のことを知らないと3度否定する。」と予言し、予言通り、ペテロはイエスを裏切ってしまった。

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復活したイエスがペテロを再起させたと伝えられるところに4世紀頃たてられた教会

 

でも、罪悪感、敗退感、喪失感に打ちのめされるペテロの前に復活したイエスが現れて、「貴方は私を愛しているか?」と3度も問う。

「はい。愛しています。」と心苦しく答えるペテロに、イエスは、「それでは私の羊の世話をしなさい。」と、伝道者となる大役を与えた。

その場所とされるガリラヤ湖畔で拾った小石は、裏切りという大きな罪を犯したのにもかかわらず、それを許し、二度目のチャンスをくださったイエスの優しさ、愛、そして、希望のシンボル。

たくさんの史跡を見て、学んだこと、考えさせられたことがたくさんあった旅だった。

でも、一言でこの旅行を締めくくるなら、天地を創造された神は、どこまでも誠実だということ。

イスラエルの歴史は、神を裏切り、忘れて、占領、難民、迫害という辛苦を何度も味わうイスラエル人と、その度救いの手を差し出してきた誠実な神との歴史だと思える。イエスがこのちっぽけな国に生まれたことも、神がアブラハムとかわした約束を忘れなかったからだろう。そして、全人類救済という神の計画はイエスから弟子たちを通し世界に広まった。

私の癌闘病はカイザリヤの石。そしてガラリヤ湖の石は、試練の中に勇気と希望を与え続けてくれる神様を思い出させる。

「私はあなたを決して離れない。」

神の約束を、この目で確認できたと思えるイスラエル旅行だった。

神様はいつだって素晴らしい!

 

 

頭に痛いコブ

数日前頭を洗っていたら、「イタッ!」

右耳の上に痛いコブができているのに気がついた。

頭を打ちつけた記憶はない。

今日は外来日だったんで、さっそく医師に報告。

触診を受けたらその後、あくびをしても痛みを感じた。

「そうね。確かに腫れているわね。何をするのがベストかしら?」と、一瞬沈黙後薦められたのはCTスキャンだった。

頭に放射?いやだ〜。

首から下のCTも取らなきゃいけない時期にきているし、安全なMRIはどうですか?と聞いてみると、一部だけだからMRIは大袈裟とおっしゃる。

それじゃあPETは?

頭は活動が盛んだからPETでは解読が難しいとのこと。

で、結局超音波を取る事になった。

これで怪しい所見がでたら次はCTなりMRIなり、さらに検査が続くことになる。

軽い気持ちでいたけれど、医師との会話で、癌の疑いがあることに気がついた。

日本行き決めたのに、また目の前に高いハードルが迫ってきた。飛び越えて、晴れ晴れとした気持ちで日本に行きたい。

もっともっと祈らないと。。。

勇気をもらった映画

“God Is Not Dead (神は死んでいない)”という映画を見てきた。

どんな内容なのかは知らず、ただ題名に惹かれて、あまり期待もせず出かけた。

でも、思いもよらず、最後まで惹き付けられ、勇気が湧いてきた抜群の映画だった。

神は存在しないことを教えようとする大学哲学教授と、自分の信仰を否定できないクリスチャン生徒が主人公であるこの映画には、普段、誰もが経験する弱肉強食のしがらみやプレッシャー、不公平さ、世の流れや権力に反したとき出会う拒絶等が描かれていた。

しかし、映画に出てくるクリスチャンたちは、そんな環境に置かれながらも、強い流れに飲み込まれることなく、敢えて試練を受け入れながら神に忠実であることを選んでいた。

映画の中の出来事が普段読んだり目にしたりしていることで、とても身近に思えたけど、特に仕事に夢中になっているリポーターが第四期の癌と告知され、ショックを受ける場面はとてもリアルに感じた。

昨日から癌かもしれない頭のコブが気になって、気分が塞ぎがちだったけれど、私が直面している難題は何も珍しいことじゃなくて、誰にでもあること。

人は皆それぞれ、違った試練に出会っている。—————そう思わされた。

でも、神様は私たちから目を離さず、私たちが何を心配しているか、百もご承知。神様は死んでいない!

神様は私の祈りに耳を傾け、絶えず正しい方向に導いてくださっている。

世の中、急速に変化していて、善が悪になり、悪が善になっている。このままでいったらどうなっちゃうんだろうと不安になるけど、神を信じる者は勇気を持って立ち上がっている。

自分のことばっかり考えてないで、神様が私に望んでおられることにこそ目をむけていかないと。。

映画は、私の祈りへの、神様からの返事のような気がした。

映画の中で何度も出てきたせりふだけれど、私も復唱したい。

“GOD IS GOOD ALL THE TIME!”

“神様はいつだって素晴らしい!”

母と過ごした聖金曜日

今日の金曜はイエスが十字架にかけられた日。

日本に来ている私は、3年前洗礼を受けた86歳になる母と、母が通うカトリック浜松教会に出かけて、この特別ミサに参加した。

聖書によると、金曜日前日の晩、弟子ユダの裏切りによりローマ兵に捕らえられたイエスは、そのまま最高司祭のところに連れていかれ、そこで神の子と名乗る恐れ多き神への冒とく者として死刑の判決、そして殴る蹴るの虐待を受ける。

当時のイスラエルはローマの支配下にあったため、翌日金曜日の朝にイエスはローマ総督ピラトの家に連れていかれ、罪状を受け入れたピラトの命令により、鞭打たれ、それからすぐ刑場であるゴルゴタまで十字架を背負わされて連れていかれた。

十字架刑はローマの刑法で、極刑であったらしい。刑の執行が急がれたのは、土曜日がユダヤ人にとって休息日で、働いてはならないことになっていたからだろう。

ローマ兵たちはイエスから服を剥ぎ取ると、「イスラエルの王様!」とからかいながらイバラの冠を頭にかぶせ、つばをはきつけ、頭を殴った。

刑場に集まった群衆は、「神の子なら十字架から降りてみろ!」とやじった。

刑は6時間にも及び、旧約聖書イザヤ書によれば、十字架上のイエスは、血だらけで、ほとんど人の様相を留めなかったとある。

正午頃から空は暗くなり、午後3時頃、ついにイエスが息絶えると、大地は大きく揺れ、祭司しか入ることができなかった神殿のカーテンが上から下まで真っ二つに裂けた。

神と人とを隔てていた原罪(神から離れ、自分の思いのままに生きる罪)が、イエスの断末魔の苦しみと死を持って取り除かれた瞬間だった。

どんなに善行を重ねても報いることのできない人の罪は、神が授けられたひとり子の犠牲によって許された。

そして十字架刑から数えて3日目の日曜日、イエスは復活する。原罪の代価である死が打ち破られ、イエスを信じる者に勝利があたえられる日となる。

拒絶、屈辱、虐待、そして死を受けた救い主のことを、弟子のヨハネはヨハネ福音書の中で、

「彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」と語っている。

イスラエルで訪れた、イエスが捕らえられる前に恐怖に襲われて祈ったゲッセマネの園、十字架を担いで歩かされたドロロッサの通り、十字架にかけられたゴルゴタ、そして埋葬された墓が、ミサの間、スライドショーのように頭に蘇った。
神の愛を知り得たこと、母もまたイエスを信じる者となって、ともにこの復活祭を祝えることが、またもう一つの奇跡のように思え、心から感謝した。

神様はいつだって素晴らしい!
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(上の写真はプロテスタント版のガイコツの顔に似たゴルゴタとそのすぐそばにあるイエスが葬られたとされる墓。中央の穴が入り口)

 

 

 

 

心乱れて、祈ること

むち打ち刑と死刑を宣告されたクリスチャン妊婦

ナイジェリアで187人ものクリスチャン女学生が、過激イスラム教徒に誘拐されたと聞いたと思ったら、今度は、アフリカのスーダンで、27歳の妊婦が、クリスチャンと結婚し、イスラム教徒になることを拒んだからと、100回のむち打ち刑と、絞首刑を言い渡された、というニュースを聞いた。続けざまに届くクリスチャン迫害のニュースに心が乱れた。

ニュースによると、この女性はイスラム教徒の父と、クリスチャンの母の間に生まれた。父は彼女が6歳のときに姿を消し、以来、クリスチャンの母に育てられた。

シャリア(Sharia)と呼ばれるイスラムの法律の下では、イスラム教を捨てることは死刑に相当する犯罪で、クリスチャンと結婚することは姦通と認められ、むち打ち刑に当たるのだそうだ。

3日間の悔い改め猶予を与えられたが、彼女は、「自分はイスラム教徒であったことは一度もなく、生まれたときからクリスチャンで、これからもクリスチャンであり通す。」と拒否した。

聖書には、イエスを筆頭に、信仰を理由に迫害され、殺される人たちが、イエスの前にも後にも、何人も登場する。でも、それは過去の歴史の中のことと信じたがっていた自分がいた。

100回もむち打たれたら、それだけで死んでしまう!そんな惨いことがスーダンに生まれたというだけで、なぜ無実の女性の上に起きなければならないんだろう。

神様は何をしてるの?! どこにいるの?!

と、信仰が揺らぐ。

でも、何度も問い返しているうち、むしろ、このスーダンの女性がここまで強くいられるのは、聖書の中の人物と同じように、彼女が神と共にいるからに違いないと思えてきた。

私にはとてもじゃないけど想像することさえ恐ろしい。ガンの恐怖は、彼女が直面している恐怖に比べたら、幼稚園レベルにさえ思えてくる。

こんな弱い信仰で、どうするんだろう。

レースを完走した癌友

ここまで書いて、悲しい知らせが届いた。

余命半年の宣告から1年半を壮絶に闘ってきたトリネガの癌友が亡くなった。死を覚悟した最後となったメールで、彼女は「これから待ち受けている運命に出会う強さと勇気を祈って欲しい。」と伝えてきていた。

死を直視しながらも、家族のためにアメリカ中、世界中に生きる道を模索し、いくつもの手術と、過酷な抗がん剤治療に耐え、仕事も続けた彼女の勇気と闘志には、全く目を見張るものがあった。

肉体の死が誰にとっても避けられないものである以上、持てる力を全て出し切って闘った彼女は、敗北したのではなく、人生のレースを勇敢に完走したのだと私には映る。そして、今は天の父と、イエスと、それから彼女の先にいった肉親の父とも一緒になって、歓喜に満ちている姿を想像する。

「がんばったね!ゴールインおめでとう!」そう天を仰いでエールを送りたい。

 

「恐れるな、貴方は私のもの。貴方が深い川を渡るときも、私は貴方と共にいる。抑圧という火の中を歩くときも、貴方は焼かれない。私が貴方の神だから。貴方は私の目に尊い。私は貴方を愛している。」(イザヤ書43:1−4)

 

神の約束を信じて、もっと力と勇気を得て、私も癌友のようにレースを完走したい。

スーダンの女性を始め、虐待や死の恐怖に瀕している多くのクリスチャンたちが救われるように、耐える力が続けて彼らに与えられるように、癌友の残された家族が、たくさんの愛に包まれて、この悲しみから癒されることを、心から祈る。

力をください

「和世さーん、お元気?」

一人息子さんが10万人に一人という特異な癌にかかってしまったお母様から電話があった。

息子さんも同じように、最近とったCT結果で、転移した癌が成長していたことがわかったのだと言う。そして、

「どうして、うちの子がこんなになっちゃったんでしょう?私が悪かったのかしら?」と、おっしゃった。

自分を責めたくなる気持ち。

自分の子供が徐々にやせ衰えていくのを何もできずに見ていなければならない母の気持ち。

まだ人生これからなのに、どんなに治療をがんばっても次から次へと裏切られていく息子さんの気持ち。

90歳、100歳と長生きしている人もいるのに、なぜ?なぜ?なぜ!?と、叫びたくなる気持ち。

痛いほどよくわかる。

でも、この問いはどんなに考えても答えはでてこない。仮に答えがみつかったとしても、それが何の助けになるのだろう?苦しみがますばかり。

「神様は全てのものを完璧につくられた。神様は生の創造主であって、死や病気をつくられた方ではありません。死や病気、この世の苦しみは、神様にとっても敵なのです。だから、そこから私たちを救うてため、神様はイエス様を与えてくださった。嵐を見たらいけないです。目の前に迫ってくる大きな波をみたら恐怖に飲み込まれて絶望してしまう。大事なことは、私たちは一人じゃないということ。私たちには信仰があります。私たちのボートは小さくても、イエス様が一緒に乗っていてくださいます。彼は嵐をも静めることができるお方です。癌よりも、死よりも強いお方です。彼に目を据えて、この嵐の脅威に負けない強さをいただけるように祈りましょう。聖書には『目の前の苦しみは長くは続かない。でもその後に待っている喜びは永遠に続く』ともあります。私もお二人のために祈ります。だからXさんもどうぞ、『力をください。』と祈って、ここを乗り越えてください。」

そう電話口で伝えた言葉は自分にも言い聞かせた言葉だった。

We who have fled to him for refuge can take new courage, for we can hold on to his promise with confidence.”  Hebrews 6:18 (NLT)

(神のところへ避難する者は新たな勇気を受けとることができるのです。神の約束は安心して頼ることができるからです。ーーヘブル人への手紙6:18)

 

すごい事が起きた

「イエスを信じる人を一人でも多く集めて彼女に手を置き神に祈ってください。
オレも神に癒してくださいと頼みます。どんなに辛い状況かよくわかります。
誰だって、「なぜだ?神様、なぜこんな目にあわなきゃいけないですか?」と問いたくなるはずです。
ジョージ、神様の約束を信頼してください!
神様に言ったらいい。
『神よ、何が起きているか分かっているでしょ?貴方は”私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方”(エペソ人への手紙3:20)で、”何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。”(第一ヨハネの手紙5:14)と聖書に書かせたじゃないですか。』とね。
神はどんな嵐がお宅の人生を通過しているか知っている。
オレは慰めが与えられることを祈ります。神はおびえる心ではなく、平安な心を与えてくれたからです。それから、どんな状況にあっても、幸せで楽しい時間を互いに過ごせることも祈ります。兄弟(パウロ)が、『たとえ試練の中にあっても喜んでいろ』(ローマ人への手紙5:3-10)って言ってるからね 。
–朝起きたら、神に言ってやれ。『神様信頼してるよー!』ってね。」

イスラエルに一緒に行った、まだ20代の若い青年から届いたジョージへのメール。

CT結果を受けとった翌日の晩、聖書クラスで、ジョージがこのメールを読み終えると、20人ほどのクラスの人達が一斉に私の回りに集まり、私の肩に手を置いて祈ってくれた。
感謝と感激は、言葉で表せないほど。
電話やメールの激励も続き、そしてさらにすごい事が起きた。
匿名で、誰かが、数年間分に相当する医療ファンドを設置してくださった!それから、癒しのためにハワイの別荘を貸すから行っておいでという人まで現れた。
「力をください」という私の祈りに、「安心しなさい。一緒にいるよ。」と、大勢の人を通して、神様が返事をくださったように思えて、信じられなくて、涙が出た。

絶望から這い上がったEd

「いつの日か、全てが終わる。でも大切なことは、後どれだけ生きられるかではなく、どう与えられた時間を生きるかだ。」

これは、治療法のない難病ALS (筋萎縮性側索硬化症)にかかった牧師Edの言葉。

日に日に死に近づいて行く自分を感じながらも、生きる目的と希望を見つけた彼のドキュメンタリーをみた。

いづれ歩く力を失い、食事も呼吸もチューブに頼るようになる。2〜5年後には、喋ることもできなくなり死ぬ。ーーーそれが自分の未来と知らされた時、牧師として、大勢の人に希望を与え続けてきたはずのEdは奈落の底に落ちた。

聖書を開くことも、祈ることもできない日々が続いた。

そこから少しづつ、重たい心を引きずるように、Edは、聖書の言葉をカードに書き写し始めた。

「『私は決してあなたを離れない。あなたを見捨てない。』そう主はおっしゃったから、私たちは『主が私を助けてくださる。だから私は恐れない。』と、自信を持って言い切ることができる。」(ヘブル人への手紙13:5-6)

絶望感にどうしようもなくなる度、最初のカードに書いたこの聖句を毎日、何度も何度も読んだ。

息子がイラクに派兵されることになった時は、もう二度と生きて会うことがないかもしれない息子にこのカードを渡した。それから、息子の命と、自分の未来を,切望する代わりに、神に委ねた。

1年半後その息子は無事戦地から戻ってきた。

そして、「このクリスマスが最後かもしれない。もう終わりだ。」と思い、仕事も、生き甲斐も、希望も、全てを失ったと思ったEdも、10年たった今、まだ生きている。

「人は明日のことが不安になると、しばしば今日、目の前にある美しいもの、豊かなこと、満たされていることを見逃してしまう。」

でも、

『空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。』(マタイ6:26)

神が助けてくださっている。自分の人生は、最後の息を引き取るまで終わりではない。

全てがなくなったところから、再びイエスに従って、イエスのように生きたいと望むようになると、同じ病にかかった人達が、一人、また一人とEdのもとにやってくるようになった。

絶望感で一杯だったEdに、神は新しい仕事を授けられ、彼は再び生きる目的を見つけた。

死の恐怖を前にしたら、人の力などたわいも無い。でも、イエスを持って死を打ち破ってくださった神に頼るなら、希望はなくならない!たとえ体は朽ち果てていっても、愛が勇気を与え続けてくれる!

「恐れるな。私が一緒だ。」

力強い神の約束を、私も最後まで忘れないでいたいと思った。

どんな状況にあっても満足するということ

心を無にする

こちらの高校で二カ国語補助教員(通訳)をしていたとき、歴史の授業の中で、仏教の教えの一つは物事から心を離し無にすること、と教えていたのが記憶にある。

ヨガが流行りだしたらそれと一緒にmeditation (瞑想)という言葉もよく聞くようになって、クリスチャンのサイトや本でもこの言葉を見つけるけれど、ヨガや太極拳では、欲や感情から離れ、何も考えない、そんな状態がmeditationの意味だと思っている。

確かに、欲しいものに手が届かない、事が思い通りにならないと、それは苦痛になるし、嫉妬にもつながる。

例えば、癌が消えて欲しい、他の人たちのように普通の生活がしたい。でも、それが叶わない、みたいな状況。

自分の願いとは裏腹に癌が進行していくとき、仏教の教えをあてがえば、

治りたいという願望を捨て、癌のことなど考えず、ただひたすら心を無にするーーとなるのだろう。

神の愛で満たす

一方、聖書(ピリピ人への手紙4:11−13)の中で、使徒パウロは、

“私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。”

と語っている。

パウロは鞭打ち刑に5回、石打刑に1回、乗っていた船が難破したのが3回、盗賊や教えに反発する聴衆から襲われたり、飢えや寒さに死にそうになったことも何度も経験し(コリント人への第二の手紙11:24−28)、最後は殉死した人。

そんなパウロが、どんな状況の中にあっても神に頼るなら、満足することができると語っているのだ。

どうして? どうやって?

それは、きっと、イエスを信じるようになる前、何人ものクリスチャンを捕らえ、迫害ていた彼が、その罪の重さに気がつき、そんな生きるに値しない罪を償ってくれたイエスの愛の重さをも知ったからだと思う。あって当たり前のものなど何もないという謙虚さと、それでも絶対な力に愛されているという確信がパウロにそう言わせたんじゃないだろうか?

私の4年前の医師の報告書には、「大変悪質な癌」とある。

同じく4年前、セカンドオピニオンを求めたUCLAの医師は、私が4年生き延びられたら、喜んで会いたいとも言った。

私はずっと前に死んでいてもおかしくなかったのかもしれない。
そう思えば、感謝の気持ちが湧いてくる。

傲慢で自分勝手で、欲張りで、間違いを何度も犯し、その都度神を泣かしてきたに違いないと思えば、たとえ癌は消えてなくならなくても、私のために日々祈ってくれる家族や友が与えられたことが、なんと恵まれていることだろうと思えてくる。

神はこんな私でも愛してくださっている。
真夏の日差しのように、ジリジリと肌に差し込むような強い愛。
それを思ったら、私の人生に足らないことはなく、満たされていると思えてくる。
感動がわき上がってくる。

パウロのどんな時でも満足するという秘訣はここにあるのじゃないだろうか?

イエスを信じる者にとって、meditationは、心から邪念を払った後、もう一歩加えて、空っぽになった心に神の愛を据え置くこと。

こんなにも愛してくださっている神様がいるのだから、万全を尽くしたら、あとは心配しない。パウロのように、全てを神に委ね、神様が私に望んでおられる目的に一歩でも近づけるように与えられた今日を生きなければ。。。生きたい、と思う。

敵が増えてきた

「主よ、なんと敵が増えてきたことでしょう!右も左も敵ばかりです。大勢の者が、『奴に神の助けなどありはしない!』と言っています。」

3000年ほど前、イスラエルを統一した王ダビデが王座を狙う息子アブサロムに追われて逃亡していたときに残したとされる旧約聖書の中の詩編3章はこんな言葉から始まる。

この詩編を読みながら、何度共鳴したことだろう。

“増えてきた敵“は癌ばかりではない。人生が思いもかけない展開を示し、いくつもの難題が次から次へと襲ってくることがある。

イエスを知る前は、そんなことになったらどうしよう!と、貯蓄や心を強くする心理学、占いにさえも救いの道を求めていた。

「しかし、主よ。あなたは私を包囲する盾。私のうなだれた頭をもちあげてくださる方です。」(詩編3:3)

洞窟から洞窟へと逃げながら、じわじわと攻めよってくる敵の数に圧倒されながら、ダビデは必死で神にしがみついたと想像する。

「私は主を叫び求めた。すると、主は聖なる山から応えてくださった。」(詩編3:4)

「私は横になり、眠りに落ちた。
しかし、無事目覚めることができた。主が私を守っていてくださったから。
私は四方を取り巻く何千という敵を恐れない!」(詩編3:6)

恐怖に負けてしまう代わりに、ダビデは勇気を得た。

イエスを知り、私もダビデと同じ神のみを頼るようになった。

「私たちは四方から難題に攻められていますが、押しつぶされてはいません。
苦闘していますが、絶望してはいません。追いつめられてはいますが、決して神から見放されてはいません。倒されても、滅ぼされてはいません。」(コリント人への第二の手紙4:8−9)

「主をいつも信頼していなさい。主こそが、(何があっても壊れない)永遠の岩であるから。」(イザヤ書26:4)

聖句に励まされながら、

「ああ、神よ立ち上がってください!
私を救ってください!
敵の横っ面をひっぱたいて下さい!
悪者の歯を砕いてください!
勝利はあなたから来ます。ああ、主よ。
貴方の民を祝福してくださいますように」(詩編3:7−8)

と、ダビデのように祈る。

King David

ミケランジェロのダビデ像

 

Choice

Choice=選択という言葉をこちらでよく聞く。

“It is your choice to be content or not.
「満足するかどうかは貴方の選択しだい。」

みたいな表現は私たちに自由意志があることを尊重しての表現だと思っている。

自由意志は、神様が人を愛しているからこそくださった大切なギフト。

どれを選ぶかで当然結果は異なってくる。

けれど、神様は導きこそくだされ、嫌という者を無理やりひっぱっていくようなことはなさらない。

全ては自己責任。

試練に出会うとき、私にはいつもchoiceがある。

なぜこんなことになっちゃったんだろう?と解決にならない「なぜ?」を繰り返す。

過去を振り返って、あの時はよかった。あの時、ああしておけば、こうしておけば、と過去を恋しがり後悔に暮れる。

もうダメだ、もうやり直せない、と諦めてしまう。

これも、xxのせい!と責任を他に転嫁する。

他の人たちが自分より幸せに見えて、嫉妬したり、自己憐憫にひたる。

明日は?来月は?来年は?と、不確実な心配をいくつも積み重ねていく。

神様なんていない!と、信仰を捨てる。

それか、
「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。」(詩編42)

と書き残したダビデ王のように、余命数週間を懸命に生きるローレーンのように、窮地にあっても神を信じ、神の導きに従うことを選ぶ。

どれを選ぶかは私のchoice.

事態がどんなに変化しても、私のchoice次第で希望や勇気を見出すことはできる。

そう教えてくれる聖書は、灯台の灯りのように静かに私を導いてくれている。

それを見失わないようにしなければ!

一寸先は闇。。だけど

次男が洗車を巡って、ガソリンスタンドの店員と大げんかをした。

「だました!」という息子に「オマエのツラは決して忘れないぞ!」と相手は言ったそうだ。

銃社会であるアメリカ。話を聞いてすぐ頭に浮かんだのは、バンとやられなくてよかった、と言うこと。

実際、息子には、時と場所を間違え、銃殺された友がいる。

夫の友人には、酔って喧嘩し、逆に人を殺してしまった息子を持つ人もいる。

同じ次男が翌日サンフランシスコに向けて移動する際、フリーウェイでタイヤがパンクして、到着に3時間も遅れたとも聞いた。

高速で走る車のタイヤがパンクしたなんて、これも恐ろしい話。

毎日高速道路を使って通勤している三人の息子と嫁たちのことが急遽心配になった。

60になったジョージはパーキンソンで高血圧。

転んで打ち所が悪く、植物状態になり亡くなったり、心臓発作や脳溢血で亡くなった友の話、を聞く度、次は彼の番かも?とこれも心配になる。

私の癌や治療の副作用も、もちろん心配の大種だけど、心配の種は数え出したらきりがない。

ニュースを読み聞きすれば、益々この世の中、一寸先は闇と思えてならない。

今日があるのは奇跡、明日の保障は誰にもない。

恐怖におびえて、あまりに大きなショックに会って、鬱になり、果てには狂ってしまった人、自殺してしまった人を何人も知っているけど、無理はない。

私だって、聖書がなければ、同じ運命に出会っているだろう。

イエスは言った。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28〜30)」

イエスの言葉に従って、全ての不安、悲しみ、苦しみをイエスに訴える。

そして、聖書を開き、神の約束を確認する。

神が今迄私に示されて来た救い、恵みを思い出す。

そう、神様は、今迄ずっと私のそばにいて、私を守り、導いてきてくださった。

そして、これからもずっと、何が起きても私を見捨てないと約束してくださった。

「恐れるな!」

その言葉を再び噛み締めたら、後は光のみ見つめる。

一人でがんばらなくてもいい。

寄り添える、決して失望することのない神がいて、本当によかったと思う。

 

“For Those Tears I Died (そんな涙のために私は死んだ)”
(信仰により麻薬中毒から救われ、できた曲だという。)
作詞作曲:Marsha Stevens 

あなたは、私のそばに来て、私の悲しみを全て分かち合ってくださるとおっしゃった。

あなたは、私の明日のためにいて下さるとおっしゃった。

私はもう少しであなたを追い払うところだった。

でも、あなたは、約束されたように、ここに来て私といてくださった。

私はただ、祈りさえすればよかった。

 

そして、イエスは言った。

「水のそば、私のそばに来なさい。

あなたが乾いていることを私は知っている。拒まれることはない。

闇の中であなたが泣いた、一粒、一粒の涙を私は感じたよ。

そして、そんな涙のために、私は死んだことを、あなたに何度も伝えた。」

 

貴方の義はとてつもなく偉大で、私には理解できません。

主よ、でもこれは、全て計画されたことと、知っています。

貴方はここにいらして、これからもずっと一緒にいてくださることを知っています。

貴方の愛が私のくさりを外し、貴方の中で私は自由になりました。

でも、イエス様、なぜ私なのですか?

 

イエスは言った。

「水のそば、私のそばに来なさい。

あなたが乾いていることを私は知っている。拒まれることはない。

闇の中であなたが泣いた、一粒、一粒の涙を私は感じたよ。

そして、そんな涙のために、私は死んだことを、あなたに何度も伝えた。」

 

イエス様、あなたに私の心も魂も捧げます。

神なしでは、私は決して完全にはなれないことを知っています。

救い主よ、あなたは全ての正しいドアを開けてくださいました。

地上のつつましい浜辺から、感謝し、貴方を褒め讃えます。

私を受けとってください。私は貴方のものです。

 

イエスは言った。

「水のそば、私のそばに来なさい。

あなたが乾いていることを私は知っている。拒まれることはない。

闇の中であなたが泣いた、一粒、一粒の涙を私は感じたよ。

そして、そんな涙のために、私は死んだことを、あなたに何度も伝えた。」

 

(訳:和世)

クリスマスがあるから

病院通いの合間をぬって、クリスマスツリーを飾り、クリスマスギフトやカードを送り、教会のクリスマスバザーに奉仕参加し、クリスマスコンサートに出かけ、いよいよクリスマス気分は盛り上がっている。

がん告知から5回目のクリスマスシーズンを迎えられて、本当にうれしい。

試練は後を断たなくても、神様に守られ、祝福をうけて1年、1年を乗り越えていけることが、どんなに素晴らしいことなのか、年を重ねる毎に強く感じる。

イエスから教えられたこと

癌闘病支援で通訳のお手伝いをさせていただいた方が二人無事治療を完了されて帰国された。支援を完了することができて、とてもうれしく思った。

クリスマスまで生きられないかもしれないと言われた末期脳癌のローレーンはホスピスのお世話になりながらも、再びバスケの試合にでて、得点をあげることができたそうだ。

大晦日までに目標1億円の脳癌研究費用募金キャンペーンも始めた。

Lauren's fund raising poster

募金を求めるテレマラソンポスター

彼女を応援したくて、イエスが言う、喜んで与える人になりたくて、思い切って、私も寄付を送った。

ガテマラからは、10年以上World Vision(ワールドビジョン)という非営利団体を通して経済支援をしてきた少年マリオから、益々ハンサムになってきた写真と、手作りの腕輪が届いた。

hand band

 

 

 

 

 

 

 

彼の作った腕輪をつけ、成長したマリオの写真を見ながら、いつか彼に会いたい!と強く願う。

月$30ドルの支援だけど、ここまで続けてこられて本当によかった。そして、これからも、彼が一人前になるまで続けていかれたらと思う。

イエスを信じる私にとって、クリスマスは救い主の生誕日。

「王の中の王、主の中の主、、」と歌うハレルヤコーラスを聞きながら、私たちに、身を屈めて互いに愛しあうことを教えるため、十字架を持って、私たち人間を永遠の死から救うため、この世に送られてきたイエスという、尊いギフトを思い、胸を熱くした。

世の中には、奉仕や寄付でも、大勢の人に影響を与える大きな働きをする団体や人がざっくりいる。

非営利団体一粒の麦の働きも、私自身も、それに比べたら、おそまつもいいとこ。

でも、イエスと天の父が大好きだから。

彼から受けた恩は、大きすぎて、どんなに逆立ちしても返せないけど、せめて少しでも喜んでいただきたいから。

「実りは多いが働き手が少ない (ルカ10:2))」とイエスは言ったから。

ジョージに励まされながら、そう思って続けてきた小さな支援。

それが実りをつけるときは、お金に変えられないほどうれしい。

やることが遅くて、失敗だらけ。忘れ物や無くしものは日常茶飯事。

欲は絶えず邪魔をして、誘惑にもすぐ負ける。

そんな私だけど、神様はもちいてくださっている。

癌になった後の人生はおまけの人生。

少しでもイエスの教えを実践できたら、最後「やった!万歳!」そう言って人生を閉じられるはず。

そう思えるのは、クリスマスがあるから。

イエス様が授けられて本当によかった!

 

 

 

ハワイじゃなくて天国だった

21日のブログで、ロビーの葬儀式辞に書かれた言葉を訳した時、Heaven (天国)をHawaii(ハワイ)と読み間違えた。

最初に読んだとき、イエス様や先に亡くなった人たちとハワイにいる?変だなあ?まるでジョークじゃない、と思ったのだけど、ハワイにお墓があるってことかな?と思って、その後、ブログのために訳している時も同じように間違いを繰り返した。

昨日英語ブログのために、文章を複写タイプしていて始めて間違いに気がついた。

1回の読み間違いならわかるけど、何度もハワイと読んでたなんて、私大丈夫?と汗がでてきた。

でも、以前もMizote(みぞて)をMakizato(まきざと)と読み間違え、この時も間違いに気がつくまで時間がかかったし、Yuko (ゆうこ)、Yoko (ようこ)Yuka (ゆか)みたいな名前もしょっちゅう読み間違えて、メールの送り間違いを繰り返してる。

右折と左折の道路標示は正しく読んでも、頭の中で逆になって、違った方向に曲がってしまったり、或は違った案内をしてしまったりしたこともある。

私はもしかして、

1)抗がん剤で頭が悪くなってきた。

2)加齢でボケてきた。

3)脳に癌が飛んだ。

4)これは何も新しいことじゃなくて、私はもしかしたらDyslexia (失読症と呼ばれる文字がひっくり返ったり、入れ替わったり、あるいは文章の行がとんだりする学習傷害)。

5)或は単にひどく注意散漫

この中のどれか、或はコンビネーションかも?と思ってジョージに話たら、

「ハハハ!ハワイは天国に近いかもしれないから可愛い間違いだ。」と笑った。そして、

「頭が悪くなってきたかだって?もう20年も前からそう言う間違えしてたよ。Hとaと2文字はあってたね。ハハハ!」と楽しんでた。

安心していいのやら、心配すべきなのやら。。

料理していて、あれ?私今塩ふったっけ?とか、お米を米びつから取るのに、3杯目だった?それとも4杯目?とか、外出すれば、家のコンロの火を消したか、ガレージのドアを閉めたかといつも不安になるし、お金や計算も数え間違えることが多くなってきたような気がする。

忘れ物やなくしものもしょっちゅう。カギをなくしたって、冷凍庫の中から出て来る可能性さえあるのだから、恐ろしい。

義理の娘ピンキーのお父さんは70歳をとおに越えておられるのだけれど、糖尿病で全盲。

なのに、一人で奥様がいない時でも、ご飯も作れるほどにしっかりしていらっしゃる。

ピンキー曰く、彼はきちんと全て物を置く所を決めていて、どこに何があるのかを知ってるので、そういうことができるのだと言う。

来年は95歳になる、お手伝いをさせてもらっている一人住まいのベティーも、毎日がスムーズに流れるように、全てきちんと計画をたてて、余分な時間をロスしたり、非常時にも慌てることがないように万全を備えている。

整理整頓、計画が失敗を起こさない非常に大切なカギと強く悟るけど、私はいつになったらそれを覚えるのだろう?

この読み間違い、勘違い、はどうしたら改善できるだろう?

ため息。

ともかく、訂正してお詫びいたします。≤(_ _)≥

PS:  ロビーのお母さんから葬儀の様子を映したYouTube ビデオが届きました。ご興味のある方は下をクリックしてください。ロビーのスライドショーは画像下の赤い帯を1:05:55にあわせるとご覧になれます。お式の最初で“King David’s Hallelujah (ダビデ王のハレルヤ)を歌ったのはロビー弟のケオニ、ロビーの思い出を語っているのは、母のCyCy,友人のKimo,Mike,Matt, 長女のKamea,そして妻のTarrah。牧師はジョージ。

http://youtu.be/f_ANl3C_CnI

 

 

 

アンジェリーナ·ジョリーの映画:悪魔を見た

元旦、ジョージと噂の映画“Unbroken”を観に行って来た。

これは、私が住んでるトーランス出身のオリンピック選手で、第二次世界大戦時日本にアメリカ兵捕虜として捕らえられながら生き延びたLouis Zamperini (ルイス·ザンペリーニ)という実在の人物の話。

Zanperini

2014年、97歳で亡くなったザンペリーニ

乳ガン予防のために両乳房全摘してこれも話題になったアンジェリーナ·ジョリーが監督をしている。

トーランスには、ザンペリーニと名付けられた飛行場があり、彼が卒業したトーランスハイスクールには、私も1年勤務した。

戦後、熱心なクリスチャンとなり、晩年、私たちの教会の男性集会にゲストスピーカーとしてやって来た時には、ジョージも話をするチャンスがあったそうだ。

2時間ちょっとの映画が終わって外に出ると、「どうだった?」とジョージが聞いてきた。

うーん、第一に、残虐な場面ばかりあって、見ているのが辛かった。

映画の中心は、ミュージシャン雅扮する渡辺ムツヒロという日本兵が悪魔のごとくザンペリーニを痛めつけるシーン。

特にザンぺリーニが、反アメリカプロパガンダのラジオ放送を拒否して収容所にもどされると、渡辺が捕虜全員に、交代でザンピリーの顔を殴れと命令するシーンは、その残酷さに気が遠くなりそうだった。

この映画を観たら、反日感情が強まるんじゃないか、日本人は反射的に広島や長崎の原爆投下はどうなんだ、と反発するんじゃないか?と心配にもなった。

第二に、ザンペリーニの一番すごいところは、ザンペリーニがアメリカ帰国後、クリスチャンになり、彼を呪って止まなかった悪夢や日本兵への憎しみから解放され、虐待を与えた日本兵を復讐ではなく、罪を許すという形で日本再訪するところなのに、それが映画にはなくて、的はずれだった。

問題の、この渡辺という人物、ザンペリーニが日本再訪をしたとき、60Minutesという人気番組のインタビューに出演している。

残虐な行為を与えたことを否定せず、しかし、ザンペリーニとの再会は拒んだ。

自分がさんざん痛めつけた相手と再会するなんて、それも相手が許しを与えるため、なんて聞いたら、それは勇気がいるだろう。でも、そのチャンスを選ばなかったことは残念の一言。

日本人として複雑な思いにさせられた映画だけれど、私はこの映画を通し、悪魔を見たのだと感じている。

戦争も癌も、皆悪魔の仕業。

悪魔をあなどったらいけない。

その爪は、身も心もぐさぐさに引き裂く。

ザンペリーニが生き延びられたのは奇跡としか思えない。

「Unbroken (不屈)」というタイトルの映画は、彼がなにものにも負けない鉄人であったというイメージを与えるけれど、実際のザンペリーニは収容所で受けた深い傷により、行き延びたものの、人生破滅寸前まで追い込まれていた。

彼を救ったのはイエスだった。

今年もいろいろな試練が待っていることだろう。

でも、不安になったり、鬱になったりする時、どんなに過酷な苦難にあっても、癒して下さるイエスがいることを思い、立ち直り、実りをたくさんつけて人生を全うしたザンペリーニのことを思い、天を仰いでがんばらなければと思った。

夫の解雇

3月末日でジョージが7年続けてきた副牧師職から解雇されることがほぼ決定した。
1年数ヶ月前、新しいシニア牧師が就任し、教会の環境が変わると、その可能性があることを私たち夫婦は何度も話してきた。
神様が状況を変えてくださること、或は新しいドアを開いてくださることをずっと祈ってきたけど、状況は悪くなるばかりで、解雇が確実になってきたということは、今の教会を離れなさいというのが、神様の答えなのだろうと思っている。

解雇されたら次の仕事を探さなければならないけれど、私は4期の癌で、ジョージはパーキンソン病。その上、声帯が麻痺して声がでない。こんな60にもなった者をいったい誰が雇ってくれるのだろうか?
今退職できるような貯蓄はないし、だいたい健康保険を失ったら癌の治療はどうするの?
健康問題だけだって明日はどうなるかわからないのに、その上に経済問題まで重なって、おい、おい、こんなのあり?

私の最初のリアクションは不安と狼狽の一色だった。

そんな私に、ジョージは何度も言った。

「今こそしっかり神様にくっついていなきゃいけないよ。」
「神様が小さいと問題は大きくなる。でも大きな神様がいれば、問題は小さくなる。」

彼の助言に従って、祈り、瞑想し、聖書の言葉に耳を傾けた。
そして思った。
ジョージは全て神の目に正しいことをしてきた。
彼のギフトが小さな箱の中に押し込められ、フタをされて、人の目に触れなくなり、彼のメッセージは礼拝に来る人たちに届かなくなっても、じっと耐え、静かに病気の人を見舞い、愛する人を失った家族を慰め、不満や不安に悩む人たちに耳を傾け、そして小さなクラスで聖書を教え続けた。

それから、次の聖句が心に響いた。

「親愛なる友よ。貴方が通っている燃え盛る試練を、思いがけないことが起こったかのように驚いてはなりません。
むしろ多いに喜びなさい。
その試練は、苦しみを通して貴方をキリストのパートナーへと近づけているのですから。
。。。
神様を喜ばすために苦しみを受けているのであれば、その正しいことを続けなさい。
そして、貴方を創造された神様は、決して間違いは起こさないのですから、貴方の人生を安心して任せなさい。(ペテロ第一の手紙4:13−19)」

ジョージはキリストを喜ばす為に苦難にあっている。
この試練を通してキリストに近づいているのならば、これは栄光に値すること。
何も恐れる必要はない!

今日読んだマタイ5章の至福の教えにも励まされた。

「貧しく神を必要としていることを認める者(心から神を求める者)は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
謙虚な者は幸いです。その人は地を相続するからです。(たとえ小さな神様からの贈り物も感謝して受けとるからです。)
あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
心のきよい者(神から目を離さず、心から受け入れる者)は幸いです。その人は神を見るからです。。。。」

たとえ貧しくなったとしても、災いが続くとしても、このイエスが「幸いだ」と言った者の中に私たち夫婦も含まれると知ると、元気がでてきた。
神様が一緒におられるから、私たちはきっと大丈夫だ。
神様がどんな計画を私たちに用意されているか、楽しみに待つ事にしよう!

癌から見えてきた真理

癌がどこまでも死なないで増え続けるということ、秩序に従わないで勝手な生き方をするということ、を考えていたら、旧約聖書の最初の書、創世記の中で、なぜ神様が禁断の実を食べたアダムとイブをエデンの園から追い出したのか、より理解できたような気がしてきた。

アダムとイブの話 

神様は天地を創造された最後に、アダムとイブ、人間を創造され、彼らに天と地の全ての生き物、植物を与えられた。

そしておっしゃった。
「この園にある全ての木になる実は、善悪を知る知識の木を除いて、全て自由に食べてよい。でも、知識の木になる実を食べたら、確実に死ぬ。」

溢れるほどのギフトをくださった神様はただ一つ、ルールをお与えになった。
守らなければならないことはたった一つだけだったのに、ある日サタンである蛇がイブを誘惑した。

「善悪を知る知識の木の実を食べても死にはしない。その実を食べたら神様と同じように善悪の判断ができるようになるのだよ。それを知ってるから、神様は食べるなと言ったんだ。」

「神様と同じように。。。」という言葉が、たまらなく魅力的に感じ、イブはアダムを誘って何万とある植物の中唯一の禁断の実を食べてしまう。

そのとたん、二人は全裸であることに羞恥を感じ、二人を探す神の声を聞くと、慌てて隠れた。

神に見つかって、「禁断の実を食べたのか?」と問われると、アダムは「貴方が私に与えてくださったイブが食べようといったから。」と、すぐさま言い訳、イブだけじゃなくて、神様にまで責任を転嫁。

イブも「蛇が私をだました。」と、罪を認める代わりに、言い訳をした。

ここのくだりは、全ての人間にあてはまる。

「神様が禁断の実などつくるから、蛇をつくったからいけなかったんだ。」と言う人たちがいるけれど、これこそ、アダムとイブと同じパターン。

人は困ったことが起きると、神を責めたくなる。

そして、私だって、イブの立場にたったら同じように、神のようになれるならと、誘惑に負け、同じように言い訳をすること間違いなし。

つまり、アダムとイブは、貴方であり、私であるということ。

アダムとイブが神との関係を壊したから、神が忠告した通り、死がこの世に入り込んだ。

「見よ。人間は私たちのように善悪を知るようになった。彼らが次に命の木から実を食べたら、永遠に生き続けることになる。」

そう神はおっしゃり、アダムとイブをエデンの園から追放された。

癌と人との類似点

「人が善悪を知るようになった」ということは、神のようになりたいと望む人間が、善と悪を決める神に従う代わり、自分たちで善悪を判断するようになったということ。

「赤信号、皆で渡れば怖くない。」という言葉があるけれど、これは、ルールがあっても、皆で無視すれば、ルールでなくなるということで、人の性を上手に表していると思う。

人間社会の価値観は、時代と共に変化し、昔常識だったことは常識でなくなった。

この世の中、善も悪も、一見いつの時代も変わらない絶対なものに思えるけれど、神から離れたら、それは相対的なものになる。

そして、こんな、神を恐れず、神に従わず、自分の思うままに生きる人間がいつまでも死なずに生き続けたら。。。

結果は癌と同じなのだろう。

神が、人が死なずに生き続けることを憂慮した理由は、ここにあると思った。

人知を越えた神が見えた

神との関係を壊した罪により、人は死ななければならない。

でも、神の愛は罰よりも深く、エデンの園からアダムとイブを追放されたと同時に、神はこの深い罪の償いを独り子のイエスに償わせることで人類を救う壮大な計画を立てられた。

人の歴史-history—は 神の話、His Storyの意味だったと言うけれど、二千年前、イエスはこの世に生まれ、神の計画は成就した。

悪も、死も、なくなるのは時間の問題。

創世記の中に隠された真理を、癌を通して知り当てたような気がする。

人類の想像を越えた神がいる!と、またしても深い感動に襲われている。

許す事

聖書の中で、イエスの弟子のペテロが自分に罪を負う者を何度許すべきか?7回か?と尋ねると、イエスが「否、70回の7倍だ。」と答える場面がある。

そしてイエスはその理由を次のたとえ話で説明した。

負債者のたとえ話(マタイ18:21−35)

何億円という返せない借金のために妻子供も含めて、身売りすることを言い渡された男が、貸方である王に土下座して頼んだ。

「どうか、もうしばらく待ってください。必ず借りたお金は返しますから。」

王は男に同情し、借金をご破算にして帰してやった。

しかし、男が家に帰る途中、今度は彼が何十万円かの金を貸している同僚に出会うと、彼はただちに金を返せと迫った。

「どうか、もうしばらく待ってください。必ず借りたお金は返しますから。」

同僚は懇願したが、男は許さず、この同僚を訴え、牢獄へと送った。

この話が王のところに届くと、王は怒って男を呼び戻した。

「私はおまえに慈悲を与え、借金を許したではないか。おまえが貸した金など、私から借りた金に比べたら比でもないのに、おまえも相手の借金を許すべきではなかったか?」

そして、この男は捕らえられ、全額返済するまで拷問を受けなければならなかった。

兄弟姉妹の罪を許せないものは、同じような罰を神から受ける。と、聖書は語っている。

言い換えると、神に背いた、死に値する人間の罪を、神はイエスの十字架によって許してくださった。だから、あなたがたも互いに許し合いなさい、と言っている。

神と一緒ならできる

人はとかく、自分のことは忘れて、人の難点はやたら目について許せないことがある。

私の大切な人を何度も傷つけたある人に、涙がでるほど怒りを感じて、悪夢にうなされ、夜目が覚めたことが何度もあった。

その人と会う度に聞く悪口に、ムカムカと怒りがこみ上げてきて、一人になった後でも、思い出しては怒鳴りたい衝動にかられることが今もある。

この人の良い部分に焦点をあてなければと思っても、黒い醜い部分が巨大になって、感謝の気持ちなど微塵も湧いてこない。

シャワーを浴びながら祈った。

「神様、許せない私の罪をどうぞお許し下さい。私の憎しみと怒りをどうぞ洗い流してください。私を許せる人間へと、清くしてください。」

祈り始めると、上の聖書の話が思い出された。

「私だって、鈍感にもたくさんの人を傷つけ、泣かせてきた。許しをこわなきゃならない人が私こそいるのに、イエス様は私の罪も、あの人の罪も十字架にかかって償ってくださった。」

そう考えているうち、爆発しそうなくらい硬くなっていた気持ちが和らいできた。

「XXの心も欲やねたみから解放されますように。清く洗い流されますように。」

私の口が開いて、私も相手を傷つけてしまう前に、新たな祈りができた。

「私(イエス)はぶどうの木。あなたは枝。あなたが私に留まり、私もあなたに留まるならば、あなたはたくさんの実をつけます。でも、私から離れたら何もできません。(ヨハネの福音書15:5)」

まさにその通りだと思った。