気配り

友達が「死に瀕する人の助け方」という記事を送ってくれた。

癌で亡くなられた女性が、なくなる数ヶ月前に、癌患者の周りにいる人たちの役に立てたらと願って自分の経験を書き残したものだと言う。

「興味本位や義理で、人助けはしないで。」ということから、具体的な、食事の差し入れとか、犬の散歩、庭の芝刈り、等のお手伝いリストも含まれていた。

その記事の冒頭で、彼女は、「私にできることがあったら何でも言ってください。」と言われても、実際に「それでは。。。」とお願いするのはとても難しいと書いているけれど、全くその通りだと思った。本当の親切ほど元気を受けるものはないけれど、親切を受け取るのは、親切を実践するのと同じほどに難しいと思う。

その理由は、謙虚にならなければならないというプライドなのかもしれないし、興味本位で覗かれ、噂の種になりたくない、ということなのかもしれない。お礼が大変だからとか、人に迷惑かけたくない、ということかもしれない。あるいは、相手の自己満足のために逆に気配りして大変と感じるからかもしれない。

日本人の部分がたくさんある私は、やはり、そんなにしてもらったら、どうやって礼を返そうと考えてしまうことが多々ある。でも、そんな時、聖書に出てくる、足を洗おうとするイエスを拒むペテロの話を思い出す。

イエスがローマ兵に捕らえられる前の晩、ダビンチの絵で有名な最後の晩餐をイエスは12人の弟子たちとした。その際、イエスは自ら弟子たちの汚れた足を洗った。
「あなた達も、こうして互いに汚れた足を洗いあいなさい。(助け合いなさい。)」という、最後の教えを実践して見せたのだったけれど、その時、ペテロは、自分の番が来ると、「そんな恐れ多いこと、絶対にダメです。」と、弾として断った。するとイエスは、「それではあなたは私とつながることはない。」(ヨハネ13:8)とお答えになり、結局ペテロはイエスに足を洗ってもらう。

誰かが、私の足を洗ってくれようとするとき、(親切を差し出してくれるとき)、私がそれを拒めば、私とその人との関係はそれまでだけど、謙虚になって洗って貰えば、友情が深まる。

親切は、助けは、神様から来ている。そう思えば、義理が増えるという意識も薄れる。恩返しのできない、身に値しない親切を、神の恵みと聖書は呼ぶ。

親切を差し出す立場になる時は、同じように、親切を神様のためにすると考える。神様からはもうたくさんの返せない恩(恵み)を受けているのだから、親切はどんなにしてもしすぎる事にならない。神様にしていると思えば、たとえ「ありがとう。」の言葉がなくても、不満は残らない。

かつて臓器移植支援をしていた時、億単位の医療費を某テレビ局の募金番組を通して受け取った家族が、移植手術当日、徹夜の待機で疲れ果ててしまっているのに、特別インタビューを申し込まれ、母なしで、父だけではいけないかと尋ねたら、「そんなことが言える身ですか?」とまるで脅し文句のようなことを言われ、断れなかったと言うことがあったのを覚えている。これは極端な例だけど、見返りを期待する親切はセールスと一緒。敬遠されても仕方がない。

人助けで何より大切なことは、相手の意思を尊重することだと思う。たとえ、こうあるべきだと思っても、相手の意思を確かめて、それを尊重する。

日本には遠慮という文化があって、仮に本音でなくても、「結構です。」と言うことが多々ある。だから、「結構です。」と相手が言っても、「どうぞ遠慮なさらず。。。」と気配りをする。
でも、相手の「結構です。」が本音だったとしたら、このやり方はストレスになる。

ジョージがまだ日本の文化を知らなかった時、日本人に招かれて和食レストランに行くと、先方がメニューの選択をするという習慣に、「僕だったら、『どうぞ好きなものをお選びください』と言うのに。」と、驚き、「結構です。」と言ってるのにもかかわらず、「まあ、まあ、遠慮せず。。」と、次から次へと注がれるビールにも苦笑したものだった。

癌になってから、それはそれは多くの方から支援、親切を受けてきている私だけれど、相手の申し込みを断りきれず、わざわざ、仕事を作ってお願いするということが時にある。そう言えば、誰かのブログに、「頼んでもいないのに、複数の友達が食べれない食事を持ってお見舞いと称しやってきて、相手をするので逆にすっかり疲れ果ててしまった。」とあったのを思い出す。

皆、自分が良かれと思うことを気配りとしてするわけだけど、こんな風に、相手が気に入ってくれてないとなると、これは逆効果。

同じ理由からかもしれないけれど、昔、ある有名な日本人作家が、「人助けはしない方が良い。本人の本音を私たちは知る由もないのだから。下手に迷惑をかけるより、静かに黙っていた方が良い。」と書いているのを読んだことがあるけれど、これは気持ちはわかっても、イエスの教えとは正反対。
気配りが伝わった時の喜びは、癌にも対抗するほどに大きいことを私は今日までなんども経験してきた。

神様は私たち人間を創造された時、私たちに”Yes” “No”を言う自由意志を与えて下さった。私たちが神の意思に反した行動を取る時も、無理強いはされない。相手の意思を尊重するというのは、大切な愛の形であり、気配りも同じように、相手の意思を尊重して初めて相手に伝わるのだと思う。

たくさんの返礼しきれない親切を受け続けている私の感謝は、神様への愛へと昇華し、そして、「互いに汚れた足を洗いあいなさい。」という教えを、少しでも実行していけることを願い、こんなにも優しい神様に喜んでいただけるような人間へと成熟していけたらと、願ってやまない。

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *