October 6th, 2015

「私の最後の抗がん剤」

いつものように、抗がん剤を受けに行くと、通路を挟んだ私の前の席の抗がん剤をぶら下げるポールに、看護婦さんが「私の最後の抗がん剤」と太く大きな字で書かれたボードを掛けた。
ピンクのリボンで飾られた可愛いボードは、今日で抗がん剤を終了する幸運な人へ、看護婦さんたちからの祝福の言葉だった。
なのに、このボードを見たとたん、私は不意を突かれたように、私にはこんな終りの日はない、という悲しみがこみ上げてきて、「最後の抗がん剤」という言葉がまるでいばらの塊のように目に痛く、まともに文字を見れない。

この祝福されたボードの下に座る人はどんな人なんだろう?

私がすべきことは分かっている。それを実践する力を神に乞わなければならない。

そう思っていると、まだ30代か40代と思える若い黒人女性がその席に座った。

1時間ほどが過ぎ、先に点滴を終えた私は、彼女のそばに歩み寄り、「おめでとうございます!神様はいつだって素晴らしい!」そう言葉をかけた。

移植支援をしている時、同じICU(集中治療室)にいたお子さんから心臓をいただいたという女の子がいた。NHKが取材にやってきて、ソーシャルワーカーの方に、「生きて欲しいと必死で祈っていた愛しい子が亡くなったのに、なんで、その子の臓器を同じICUの子にあげられるんでしょうか?」と、質問していたことを思い出した。

それから、昔見た、ジャックニコルソン主演の「カッコーの巣の上で(英語でカッコー,cuckooには気違いの意味がある)」という映画の一シーンが心に浮かんだ。

鉄格子、終始監視される精神病棟に入れられたジャックニコルソンがいよいよ退院する日が来て、彼は大喜びするのだが、「おめでとう」と言葉をかける仲間たちは、悲しみを隠しきれない。鉄格子の外に出られない仲間のことを思い、ジャックニコルソンは、退院の前夜、監視に賄賂を渡し、売春婦や酒を持ち込み、仲間とどんちゃん騒ぎをする。そして、自分も酔って、翌朝まで眠りこけてしまう。失態の責任を問われ、彼は退院のチャンスを逃してしまう。

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という話。
お釈迦様が地獄に落ちたカンダタに慈悲をかけ、蜘蛛の糸を下ろし、カンダタを救おうとされる。喜んだカンダタはこの糸を掴み昇り始めるのだが、ふと下をみると、他の極悪人も同じ糸を掴んで上っている。そんな大勢の人が掴んだら、この細い糸は切れてしまうと、カンダタは、「これはオレのだ!」と怒鳴るのだが、そのとたんに糸が切れて、カンダタはまた地獄に落ちてしまう。

私たちは、皆苦難から逃れたい、助かりたいと思う。そして、その門が狭ければ、カンダタのように、我先にと思うのが自然。

でも、移植のドナー家族も、ジャックニコルソンの映画も、そこにやさしさがある。外側からみたら敗者、愚か者のようにみえるやさしさがある。
苦しんでいる人たちの中に敢えて留まるやさしさ。
自分の身を忘れて他を生かそうとするやさしさ。

その話をジョージにしたら、それが「イマニュエル」だと言った。

イエスは、即席の奇跡を起こして私たちを救う代わりに、苦しむ私たちの中に入ってこられた。そして、死刑の席につかれた。私たちに代わって。。。

外に出る門が狭かったら、敢えて自分は後になる。それがイマニュエル。

カンダタのように、また地獄に落ちてそれでおしまいだったら、何も良いことはないけれど、イエスは死を打ち破った。イエスを信じる者は、この世の生が終わったら、永遠の命をいただける。楽しいことが待っていると思えば、「おさきにどうぞ。」と言うことも可能。

神様は私をまだまだ練り上げて止まないようだ。