「人魚姫」が好きな訳

幼い頃、私は絵本が大好きだった。

寝る前、同じ布団に横になって、毎晩のように読んでくれた父の声や、好きだった本の挿絵が今も脳裏にある。

「人魚姫」はその中でも格別好きだった童話の一つ。

遭難した船から助けた王子に恋をし、海の底に住む魔女に頼んで、声と引き換えに人間の姿にしてもらった人魚姫は、王子の心を獲得しなければ、海の泡となって消える運命と魔女から忠告される。

人となって王子に近づいた人魚姫だったけれど、彼の命の恩人は自分なのだと説明する声をもたない彼女の代わりに、王子は別の女性を命の恩人と思って恋をした。失恋した人魚姫は、王子を殺して人魚に戻るという選択肢もあったのに、敢えて泡となり、消え失せるという悲しい結末。

今あの童話を思い出すと、「愛とは耐えること」というメッセージが泣かせるほどに美しく、幼い心をも惹き付けたのだと思う。

「幸福の王子」も大好きな童話の一つだけれど、あれも同じ。

冬が来る前、南の暖かい国に移動する途中、銅像である幸福の王子に頼まれ、銅像に埋め込まれた宝石を貧しい人たちに届けるうち、時期を失って死んでしまうツバメは、愛のために命を落とした。

どちらの話も泣けてしょうがなかったのは、愛の代償が誰にも気がつかれない死だったからなのだと思う。

「なぜあんないい人がこんな不幸にあうの?」という問いをよく聞くけれど、良い事をしても(この世では)報われないという話は、童話の中にもたくさん描かれていると今にして思う。

でも、そんな童話が美しいと感動を呼ぶのは、報われなくても、恨み辛みを口にせず、じっと耐えて愛を全うしているからなんだと思う。

聖書(ヨハネ14:6)は、イエスだけが「道であり、真理であり、いのち」であって、イエスを通してでなければ、だれひとり天の父のみもとに行くことはできないと語っている。

了見が狭いような言葉だけれど、私たちが永遠の命を得るために、苦しみを受け命を犠牲にしてくださったのは誰でもない、イエスだけなのだと知れば、納得がいく。

イエスは神の子であったのに、人は、彼を裸にし、唾をはき、鞭をうち、ののしり、笑いものにし、そして殺してしまった。
それでも、十字架上で苦しみにあっている時、「父よ。彼らをお許し下さい。彼らは自分たちのしていることをわかっていないのです。」と弁護した。

イエスこそ、「人魚姫」、「幸福の王子」のモデルなのだと思う。
そして、イエスの話は物語じゃなくて、ノンフィクション。

命の恩人と気がつかない私たちのために犠牲となってくださったイエスが十字架にかけられた金曜日、そして、復活して死を破った日曜日を祝う復活祭がまもなくやってくる。

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