どんな状況にあっても満足するということ

心を無にする

こちらの高校で二カ国語補助教員(通訳)をしていたとき、歴史の授業の中で、仏教の教えの一つは物事から心を離し無にすること、と教えていたのが記憶にある。

ヨガが流行りだしたらそれと一緒にmeditation (瞑想)という言葉もよく聞くようになって、クリスチャンのサイトや本でもこの言葉を見つけるけれど、ヨガや太極拳では、欲や感情から離れ、何も考えない、そんな状態がmeditationの意味だと思っている。

確かに、欲しいものに手が届かない、事が思い通りにならないと、それは苦痛になるし、嫉妬にもつながる。

例えば、癌が消えて欲しい、他の人たちのように普通の生活がしたい。でも、それが叶わない、みたいな状況。

自分の願いとは裏腹に癌が進行していくとき、仏教の教えをあてがえば、

治りたいという願望を捨て、癌のことなど考えず、ただひたすら心を無にするーーとなるのだろう。

神の愛で満たす

一方、聖書(ピリピ人への手紙4:11−13)の中で、使徒パウロは、

“私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。”

と語っている。

パウロは鞭打ち刑に5回、石打刑に1回、乗っていた船が難破したのが3回、盗賊や教えに反発する聴衆から襲われたり、飢えや寒さに死にそうになったことも何度も経験し(コリント人への第二の手紙11:24−28)、最後は殉死した人。

そんなパウロが、どんな状況の中にあっても神に頼るなら、満足することができると語っているのだ。

どうして? どうやって?

それは、きっと、イエスを信じるようになる前、何人ものクリスチャンを捕らえ、迫害ていた彼が、その罪の重さに気がつき、そんな生きるに値しない罪を償ってくれたイエスの愛の重さをも知ったからだと思う。あって当たり前のものなど何もないという謙虚さと、それでも絶対な力に愛されているという確信がパウロにそう言わせたんじゃないだろうか?

私の4年前の医師の報告書には、「大変悪質な癌」とある。

同じく4年前、セカンドオピニオンを求めたUCLAの医師は、私が4年生き延びられたら、喜んで会いたいとも言った。

私はずっと前に死んでいてもおかしくなかったのかもしれない。
そう思えば、感謝の気持ちが湧いてくる。

傲慢で自分勝手で、欲張りで、間違いを何度も犯し、その都度神を泣かしてきたに違いないと思えば、たとえ癌は消えてなくならなくても、私のために日々祈ってくれる家族や友が与えられたことが、なんと恵まれていることだろうと思えてくる。

神はこんな私でも愛してくださっている。
真夏の日差しのように、ジリジリと肌に差し込むような強い愛。
それを思ったら、私の人生に足らないことはなく、満たされていると思えてくる。
感動がわき上がってくる。

パウロのどんな時でも満足するという秘訣はここにあるのじゃないだろうか?

イエスを信じる者にとって、meditationは、心から邪念を払った後、もう一歩加えて、空っぽになった心に神の愛を据え置くこと。

こんなにも愛してくださっている神様がいるのだから、万全を尽くしたら、あとは心配しない。パウロのように、全てを神に委ね、神様が私に望んでおられる目的に一歩でも近づけるように与えられた今日を生きなければ。。。生きたい、と思う。

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