子を亡くしたマリアのこと

聖書クラスで、イエスの母であるマリア懐妊(ルカ1章)の話を読んだ。

マリアは13−14歳で、ヨセフと婚約中だった。当時、この年齢での結婚は珍しくなかったらしい。

聖書によれば、天使ガブリエルから神の子を身ごもることを知らされると、マリアは、「どうしてそんなことが?!」と驚きながらも、「こんな身分の低いものを選んでくださって」と感謝し、「主の御心のままに」と、素直に受け入れる。

イエスの母、マリアはカソリックでは聖母と呼ばれ、イエスに劣らず、崇められているけれど、プロテスタントの教会では、マリアはあくまでも人であり、カソリックほど大きな扱いはしない。

でも、今週はそのマリアのことをいろいろ考えている。

神の子の母となる大役をつかわされて、彼女はどんな気持ちだっただろう。
同じルカの書によれば、彼女はイエス受胎を多いに喜んだとある。

従順で、謙虚で、そして深い信仰を持っていたのだろうと想像する。

神に選ばれたことは、確かに喜びに絶えない、最高に名誉なことに違いなかったわけだけど、神に選ばれた他の「聖者」と同じように、マリアも想像もつかない辛苦を味わうことになる。

我が子の死刑を、辱めを受け、十字架の上で苦しみ死んでいく息子をみつめなければならなかった。

旧約の中にでてくるアブラハムも、老いて生まれた一人息子イサクを生け贄にしろと神から言われるが、息子を殺そうとする直前に、天使が現れて、「もうよろしい。おまえの神への忠誠心はよくわかった。」と、それが信仰を試すテストであったことを知らされる。

アブラハムはイサクを失わずにすんだのに、マリアの前にはイエスの死刑を止める天使は現れなかった。

3日後にイエスが復活して、彼女の悲しみは再び喜びへと逆転したに違いないけれど、マリアは、子供を亡くす多くの母親の悲しみ、死んでいく我が子の前で、無力である空しさ、絶望感を体験したことになる。

苦しみに喘ぐ息子の前で、それでもマリアは信仰を持ち続けただろうか?

アブラハムのように、「神様は決して間違いは犯さないはずだから。」と信じ続けただろうか?

救い主の母という大役のために選ばれたマリアだから、「助けてください!」と心が引き裂かれる思いで祈りながらも、きっと、神を信じ続けたことだろうと思う。

深い悲しみや恐怖の闇に突き落とされた時、私たちを支えてくれるのは、やはり、天地を創造し、私はあなたを決して一人にしないと約束してくれた神への信仰なのだと思う。そして、イエスとマリアの多大なコストによって、死が破られたから、イエスが蘇ったように、イエスを救い主と信じる者は皆永遠の命を約束されている。

神様はいつだって素晴らしい!

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