March 30th, 2013

神よ、どうして私をお見捨てになったのですか

これは、イエスが生まれる千年以上も前にイスラエルの王だったダビデが書いた言葉(旧約聖書詩編22)で、又、イエスが十字架上で死の苦しみにもだえているとき叫んだ言葉。

昨日はGood Friday(聖なる金曜日)だった。イエスが十字架にかけられた日のことで、それなのにgoodと呼ぶのは、この日、彼が私たちの身代わりとなって、私たちと神の間を遮断していた原罪(神から離れた罪)を、死をもって取り除いてくれたと信じるから。

なぜ神の子であるイエスがこのような言葉を発したのか、今まで理解できないでいた。でも、自分自身や他の癌の人たちの恐怖や絶望感、苦痛、悲しみを経験して、やっと、なぜかが理解できたように思えた。

苦しみを受けた救い主

病人を癒し、死人まで生き返らせるような奇跡をおこし、神の国がどんなところなのか、天地を創造した神は、私たちに何を望まれているか、を説いて、大勢の群衆を惹き付けたイエスは、当時の宗教的リーダーたちの嫉妬を買って、たちまちのうちに、神の子と名乗る恐れ多き冒涜者として捕らえられ、極刑にかけられた。

イエスは自分のそんな運命を知っていた。

神の一人子でありながら、人間の子として生まれてきたから、彼は私たちが感じるように、痛みも恐怖も悲しみも全て感じられた。彼は捕らえられる前、ゲッセマネの園で3度長い命乞いの祈りを捧げている。

地にひれ伏し、血の汗を流しながら「激しい苦痛と絶望」に襲われながらイエスは祈ったと聖書にある。

「父よ。もしできることなら、この杯(十字架刑という運命)を取り除いてください!」(マタイ26:39)

癌患者が、死に瀕する者が感じるのと同じ、否、もっと恐ろしい恐怖だったに違いない。

しかし、イエスの祈りは、「でも、私の願い通りでなく、あなたの願い通りになりますように。」と締めくくられた。

万物の創造主である神は、何でも願い事を叶えてくれる「魔法のランプ」とは違う。神は、人が神を捨てた罪、死に相当するこの原罪から人を救おうと考えておられた。

神は、その重責を我が子イエスに任せられ、イエスは恐怖にもだえながらも、神である父を愛するがゆえに、私たち人間を愛するがゆえに、敢えてそれを受けた。

 

十字架の重さ

イエスは私たちが神と和解できるように、私たちの罪を背負って、血と涙を流しながら亡くなってくださったのだった。

癌になるまで、私は日本からロスにやってくる渡航臓器移植患者家族支援を続けていた。

死に近づいていくだけの長い闘病生活の末、脳死の方から新しい臓器をいただいて助かる臓器移植にかかわりながら、患者家族の苦悩と喜び、そして、その裏でドナー(臓器提供者)家族が通る苦悩と悲しみを知ったとき、イエスは、私にとって、究極のドナーだと思った。

癌になってこの3年間、何度も「神様どこにいらっしゃるのですか?速く私の祈りに答えてください!助けてください!守ってください!」と祈ったけれど、「どうして私をお見捨てになったのですか?」という言葉は、十字架の上で、イエスが、断末魔の苦しみと悲しみを味わっていたから発せられたのだろう。

人となって、神の子は、私たちと同じ恐怖と苦痛を受けられた。

そして、その苦しみや悲しみは、私が受けるべき罪の酬いだったと思ったら、こらえられずに、涙が頬をつたって落ちてきた。

神は、イエスは、こんなにまで重たい代価を払ってまでも、私を、私たちを愛してくださっているんだと思ったら、胸の芯まで差し込むような強い感情に襲われた。

十字架上でイエスが息をひきとったのは金曜日の午後3時頃だった。なのに、あたりは真っ暗で、イエスが亡くなった瞬間大地は揺れ動き、祭司しか入れなかった神殿の礼拝場所を仕切っていた幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

幕が裂けたのは、私たちの罪が許されて、神と私たちを隔てるものが何もなくなったということを意味するのだと言う。

 

復活の力

そして、3日目の日曜日、イエスは復活する。死が打ち破られた勝利の日である。

私たちが善行を重ねるからではない。イエスが身代わりになってくれたから、永遠の命が得られることになった。

イエスが旧約の中で予言された救世主(キリスト)であることが証明された。

神の御国への招待状は全ての人に与えられ、あとはそれを私たちが受けとるかどうかを決めるだけ。

神からの招待状を受けとる者にとって、死は終わりではない。

この復活祭(イースター)、天の父とその一人子イエスがくださった勇気と希望と、かけがえのない愛の重さを噛み締め、それをを見失うことなく、これからもどこまでもついていきますと祈る。