移植支援のボランティアとの出会いは13年前だった。
心臓移植に渡米してくるというみゆきちゃん(当時8歳)の写真を日系新聞で見つけたとき、彼女が私の姪にそっくりで、ハッとした。
彼女は移植にこぎ着くことなく亡くなってしまったけれど、彼女と彼女の両親に宛てた手紙が私をボランティアへと導いた。
この13年間、 振り返ってみると、人助けをしていたようで、実は救われていたのは自分だったとつくづく思う。
ボランティアと出会ったとき、私はまだ神を信じてはいなかった。というより、占い、お守り、神社仏閣、等ご利益があるというものは、まるで買い物でもするように何でも試みていたから典型的日本人だったと言った方がよいかもしれない。
御利益があれば、「これは効く!」となるけれど、ボランティアを通して私が見たものは少し違った。
愛する者を亡くした移植を望んでいた家族が、「皆さんのご恩を一生忘れない。」と、感謝で泣いていた。
突然の死にもかかわらず、泣きながら名前も告げずに愛する者の臓器を未知の相手に提供する家族がいた。
私はイマニュエル(=あなたを決して離れない)と呼ばれる神を目撃したと思った。
私たちに永遠の命を与えるために死んでくださったイエスの十字架をみたと思った。
以来、私はイエスに恋し、イエスに従うことを選んだ。
出会う患者家族の方々に、「皆さんの通る道はとても辛い。でもその分、皆さんはこれからとことん神様の懐に近づいていく」と語らせていただいた。
癌になった今、それは私自身のストーリーとなった。
癌闘病の道は決して平坦ではない。でも、私はとことん神の懐に近づいている。
弱い私をイマニュエルと呼ばれる強くてやさしい神が支えてくれる。
移植のボランティアを始めなければ、みゆきちゃんを知らなければ、私はこんな神と出会うことがなかったかもしれない。
ボランティアを通し救われたのは私自身だった。そしてみゆきちゃんは私の道先案内人であった。