邦画「狂った果実」と「生きる」を見た

抗がん剤療法の副作用で、体調が崩れやすく、行動範囲もいたく狭まった最近、近くの公立図書館でDVDやビデオを借りるのがジョージと私の楽しみの一つ。

日本人の多く住むトーランスの図書館には英字幕付きの日本の映画もたくさん用意されている。

ジョージが石原慎太郎の「狂った果実」(1956年)と、黒沢明の「生きる」(1952年)を選んだ。どちらも当時多いに話題をよんだ作品である。

暗いエンディングの「狂った果実」

「狂った果実」は太陽族と呼ばれた金持ちのパーティー三昧の青年たちの間で起きる不倫と恋人を兄に取られた弟が最後に二人を殺害する話。

登場人物は皆ろくでなし。

純粋に思えた弟も最後に二人も殺してしまい、 罪を犯した者はその報いを受けると言うのがメッセージのように思えた。許しも、改心もなければ、希望もない暗いエンディング。心が重くなった。

希望を与える黒沢の映画

一方「生きる」は胃がんで余命いくばくもなくなったまじめ一筋の公務員が、死を目前にして、世間に順応してきた自分の生き方は間違っていたと気づき、生きる本当の喜びを求めたいと願う。

いろいろ模索した結果、彼は官僚主義の職場に挑戦して、市民の本当の見方となり、市民の希望する公園設置に全力を注ぐ。

しかし、その功績を認められることはなく、完成した公園で一人寒い冬の夜息をひきとっていく。でも、彼は最後幸せであったというお話。

死がテーマになっているため、ジョージは「見ない方がいいんじゃない?」と言ったけど、主人公が他者のために残りの時間を捧げようと決心した時点から、また、葬儀のシーンで、自己欺瞞な視点から主人公の行動の変化を理由ずけようとしていた同僚たちが、主人公の偉大さに気づいていく終盤に、多いに勇気づけられ、感動を覚えた。

どちらの映画も現実社会の堕落を的確に描いていたが、「狂った果実」には救いも恵みもなく、「生きる」には死をも乗り越える希望が見えた。人は誰かの人生に触れることができたとき、たとえ死の目前であっても人生に意味を見いだせる。「世界の黒沢」と呼ばれた彼の作品に始めて惹かれた一夜だった。

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