なぜイエスを信じるに至ったか

最初の私

主はいつも私によくしてきてくださいました。私がまだ主を知らない以前から、私を見守り、恵みと慈悲に溢れる驚くべき計画に従って、今日までずっと私を導いてきてくださいました。私のことをこんなにも愛して下さっている神がいると知ったことは、人生の中で、最高の出来事でした。

日本はクリスチャン人口が5%以下と言われていますが、私の両親もご多分にもれず、先祖や複数の神を崇拝していました。でも、隣が教会だったことから、私を日曜学校と、教会に付属する幼稚園に入れました。私は、どちらも大変気に入って、園長先生がされるイエス様のお話も、皆で歌う賛美歌もとても喜んでいました。お箸の使い方を習うように、祈りも自然と身につけ、毎晩のように祈っていたものです。
でも、大きくなるに従い、だんだん心は他の興味や願望で満たされていき、中学になって、モルモン教徒に会うと、「私たちが本当のクリスチャンです。私たちの教会にいらっしゃい。」と誘われ、一方、日曜学校の先生からは、「かかわらない方が良い。」と言われ、初めて、キリスト教にも正しいもの怪しいもの、いろいろあるのだと知り、宗教は危険だと、以来、教会に行くことも、祈ることも止めました。20数年後、今の夫、ジョージと出会う迄は。

結婚は人生を変えます。私の場合も例外ではありませんでした。
アメリカに来て、ジョージと出会い、結婚するとき、彼は一つだけ条件を付けました。
「僕と一緒に神様を探し求めてくれないか?」

当時、彼は成人学校の英語教師で、私はごく一般的な日本人。すなわち、宗教は持たないといいつつも、超自然能力があると言われるものは、お守りでも、占いでも、何でも信じていました。イエス様や天地を創造された神様のことなど、ほとんど知らなかったのに、生意気にも、
「問題なし!私、昔日曜学校通ってたの。聖書読んだことあるし、イエス様のこともう知ってるよ。クリスマスは彼の誕生日でしょ。イースターは復活祭。ね!」

等と答えました。
ジョージが私に頼んでいることは、スタバにでも毎日曜日行くぐらいのこと。簡単、朝飯前!と思っていたのです。

ところが、教会通いが始まってみると、当時の私の英語力は大変乏しく、牧師の言っていることはチンプンカンプン。何も分からなくて、退屈でしかたありませんでした。

ジョージは同じ頃、自宅で、自分の生徒を招き、聖書の勉強も始めました。自宅での勉強会でしたから、もちろん私も参加しましたが、私の態度は依然生意気なものでした。

「アダムとイブが最初の人間?私の先祖?ウソー!私の先祖はお猿さん。人間は猿から進化したんでしょ?アダムは930歳まで生きたですって?そんなおとぎ話みたいなこと、マジに信じろなんて言わないで!」と、バカにしていました。

一方、日本の伝統行事を子供達に伝えたくて、季節の節々に人形やお飾りを出し、お供えやらしていると、「何をしてるの?」「これはどういう意味?」「誰にお供えしているの?」等とたちまちジョージの質問の的になりました。お祭りや季節の行事は全て宗教行事、アダムやイブの話と同じように非科学的であることに気がつかず、クリスチャンになるということは、日本人を辞めることのように思えて、ひたすら抵抗を感じて止みませんでした。

すると、神様が駒を動かされたのです。

詰めてきた愛

私の信仰の成長を心配したジョージは日本の教会に行くことを勧めてきました。

彼に言われた通り、小さな日本の教会を見つけると、初めてであった日本人牧師は、ジョージも英語教師になる前は牧師だったことを知り、日本の教会で一緒に働いて欲しいと言ってきました。それで、信じられないことに、突然ジョージはこの小さな日本の教会のパートタイム牧師となり、私は、まだ信者でもないのに牧師の妻となってしまいました。おまけに、通訳という大役を与えられ、嫌でもジョージの説教と、聖句に全神経を集中しなければならなくなりました。あくびをしている時間はもうなくなりました。

神様は第二の駒を動かされました。

私はクリスチャンではなかったので、ジョージと私は「同じくびき」で繋がれておらず、違った方向を向いて、結婚当初、喧嘩が絶えませんでした。

ところが、喧嘩をする度、ジョージは怒ってどこかに出ていくのに、必ず「ごめん。」と謝って帰ってくるのです。彼に「ごめん。」と言われると、「絶対謝らない!」とかたくなになっていた私の心もソフトになって、「ごめんね。」が言えるのでした。頭を下げることが大の苦手な私にとって、このように彼が謙虚になれることは不思議でなりませんでした。なぜなんだ?と思っていると、ある日、彼が祈っていることに気がついたのです。彼はよく、「神様は皆に手を差し伸べてくださっている。僕たちはその手を握りさえすればいいんだ。そうしたら、神様が僕たちを変えてくださる。」と言っていましたが、これだ!と思いました。彼が辛抱強く、謙虚になれるのは、神様の手を握っているからなんだと思ったら、私も握りたい!と、初めて神に近づきたいという願望を覚えました。

Geo holding God's hand

ジョージが神の手を握っていると気がつき、私も神に近づきたいと思った年に作ったジョージへの誕生日カード

神様は手を緩めることなく、いよいよ第三の駒を動かされました。決定打でした。

美佑紀ちゃん

#2Miyuki

物部美佑紀ちゃん

1997年春、ロスの日系新聞に載った一つの記事が目に留まりました。
8歳になる重い心臓病を煩った少女、美佑紀ちゃんが、心臓移植のために東京からUCLAにやってくるという記事でした。当時、日本はまだ脳死臓器移植法が成立しておらず、心臓移植は不可能で、美佑紀ちゃんの両親は最後の望みをたくして、ロスに来ることを決心した、とありました。記事の隣に載っていた美佑紀ちゃんの写真が、私の姪にそっくりで、息を呑みました。

美佑紀ちゃんのことは、アメリカのラジオニュースでも取り上げられ、毎日状況が報道されました。
「重篤な状態が続く中、依然ドナー(臓器提供者)を待っています。。」

そんな報道を聞きながら、メソメソしていると、ジョージが言いました。
「そんなに気になるというのは、神様が背中を押しているのかもしれない。彼女のために何かしたら?」

思ってもみなかったことでしたが、ジョージに勇気づけられ、病院に電話をしました。でも、応対に出た女性は、すでに十分なボランティアがいると、断ってきました。しかたない、と諦めようと思ったものの、ラジオは、美佑紀ちゃんが大出血を繰り返し、状態が悪化していると伝えています。
諦めるに諦めきれず、手紙を書く事に決めました。
でも、何と書こう?もう必要以上にがんばってきた幼い少女に、これ以上「がんばって」などと言えない、——そう思っていると、思いもかけない言葉が浮かんできたのです。
神様が一緒。彼女がどこに行こうとも、何が起きようとも、少女を創造され、愛しておられる神様が、一緒。だから何も恐れなで欲しい。
なんとつまらない人生だったか、等と考えないで欲しい。だって、彼女は私をも含む、大勢の人たちの心に触れ、動かしたのだから。美佑紀ちゃんが生まれてきてくれて本当によかった!

バカにしていたのに、イマニュエル(神は我と共に)と呼ばれる神を、私は頼り始めていました。

2通の手紙と、赤いハートをかかえたテディーベアのぬいぐるみを持って、ジョージと共に病院を訪問しました。でも、残念なことに、丁度両親は美佑紀ちゃんの傍を離れており、いつ戻ってくるかわからないと言われ、しかたなく、手紙とぬいぐるみを看護士に渡し、後ろ髪を引かれる思いで病院を去りました。

翌日、運転中、驚愕のニュースがラジオから流れてきました。早朝に、美佑紀ちゃんが息を引き取ったと言うのです。涙が雪崩のように溢れてきて、前が見えなくなり、車を止めなければなりませんでした。
「神様なぜ?なぜ彼女を助けてくれなかったの?あんなに一生懸命祈ったのに。。たったの8歳だったのに。日本からはるばるやってきたのに。。なぜ?なぜ?」

神様をとことん責めました。

数週間が過ぎ、美佑紀ちゃんのことは、過去の出来事になりつつありました。すると、ある日、突然、長い手紙が日本から届きました。美佑紀ちゃんの両親からでした。
まるで、会う事のなかった美佑紀ちゃんと出会ったような気がして、喜んで封を切りました。

「皆さんから受けた善意に、私たち夫婦は今も涙がこぼれています。」
そう書かれた一節を読んだら、たちどころに熱いものがこみ上げてきて、私はまた泣きました。でも、今度は喜びと感謝の涙でした。

神様は、壮絶な闘いの中にいらしたのです。美佑紀ちゃんのことも、ご両親のことも放ってはいらっしゃらなかった。ずっと暖かい大きな手でしっかり抱き抱えてくださっていた。そう思ったら、うれしくて、涙が止まらなかったのです。

手紙を受けとって、まもなく、感激のご両親との対面が実現しました。
このうれしい出会いの中で、お母様がおっしゃいました。
「また心臓移植にUCLAにやってきた日本の患者さんが、心臓停止を起こしてしまいました。和世さん、お手伝いしてくださいませんか?」

美佑紀ちゃんのこと以外、何もかかわることなど考えていなかったのに、移植の「い」の字も知らなかったのに、こうして、思いもかけない形で、運命の渡航移植支援が始まりました。

渡米臓器移植支援

航移植支援に関わり始めると、まもなく、患者家族が後を絶たずにやってくることを知りました。皆さん、外地は初めてという方たちがほとんどで、知人もいなければ、言葉の壁も厚いものがありました。

美佑紀ちゃんのときの通訳だった学生が就職でボランティアから離れると、私は病院に、通訳を探して欲しいと電話をしました。すると、何が間違ったのか、数日して、私にミーティングに来て欲しいという電話がかかってきました。

最初は何のことなのかわからず、”Yes”と答えたものの、もしかして、私に通訳しろって言ってるんだろうか?と気がつくと、たちまち真っ青。そんなの絶対無理!と、即断ろうと思いました。
すると、ジョージが電話の前に立ち塞いで言うのです。

「君は誰と結婚してるんだ? 何年結婚してるんだ? 君の英語が完璧でないのは知っている。でも、家族は今着いたばかりで、右も左もわからないんだよ。同じ日本人が困ってるんじゃないか。行きなさい!」

私は当時、現地の高校で通訳としてパートタイムの仕事をしていましたが、医療英語の知識は生物の授業で生徒と学ぶものだけでした。ジョージが言っていることは、まるで清水の舞台から飛び降りることのようで、自信など、欠片もなく、辞書をかかえ、ドキドキしながら、ひたすら祈って病院へ行きました。

幸い、この時の通訳は数分で終わりましたが、以来、病院は日夜を問わず、一週間に何度も通訳を求めて電話をしてくるようになりました。とても一人では対応できないと困っていると、「僕に任せて。」と言い、ジョージは成人学校の自分の生徒をリクルートしに出かけました。

彼のクラスにはエリートサラリーマンの奥様たちがいましたが、最初は彼の呼びかけに誰も応答しませんでした。すると、ジョージの説教がまた始まりました。

「君たちは何のために英語を勉強しているの?優雅なゴルフコースでゴルフをしたいから?新しいキャリアを見つけたいから? 取る事ばかりだけれど、与えることはどうなの?」

家に戻ってくると、彼は何人もの名前が連なった、ボランティアのリストを見せてくれました。彼のおかげで、新しいボランティアグループが結成したのです。
名前も資金もないまま(一粒の麦という名前は10年後、非営利団体に格上げしたとき、初めて付けました。)、宣伝することもありませんでしたが、クチコミで、ボランティアは、一人抜ければ、また新しい誰かが加えられ、途絶えることなく与えられ続けました。

支援グループとして、私たちは、アパートを確保し、家具や生活用品を調達、車を運転されない方達のためには、病院やお買い物にご案内し、食事の差し入れをし、病院内外の通訳をし、会計の交渉をし、そして、手術や緊急事態には、それが朝の2時、3時であっても傍に付き添いました。そうすることにより、私は患者家族の方々の苦難、痛み、不安や恐怖、手術が成功したときの喜び、そして、大事な家族を失ったときの悲しみ等を目撃するようになりました。

どんなに時代が進化しても、死の前で私たちは無力です。喉の乾いた人が水を探し求めるように、私は聖書に助けを求め始めました。そして、気がついたのです。

私たちは「エデンの園」に住んでいるのではないということを。罪が偲び込んだこの世では、誰も明日の保障はないこと。今日生きられたら、それは神様からいただいた恵みであり、「よこせ」と要求できるものではないこと。仮に短い一生であっても、多くの人の心に触れることができたら、神の目には、自分勝手な90−100の人生より、はるかに実り多いものと映るのだろうということ。そして、神から離れた罪の代価である永遠の死から私たちを救い出すために、神は、イエスを身代わりにしてくださったこと。
そこまで気がついたら、もうイエスを拒む理由は全て消え失せました。1998年12月27日、イエスを私の救い主として受け入れ、ジョージの手により洗礼を受けました。神は、イエスは、ついに私の心を射落としたのです。

baptism

洗礼式

移植支援は癌闘病の訓練場だった

イエスを私の救い主と受け入れたときから、全てが変わり始めました。移植支援は常に私を神に近づけ、聖書の言葉は息を吹き始めました。ドナーが臓器を提供し、患者さんが救われる度、それは、イエスの十字架の再現のように映りはじめました。血と涙を流し命を与えるドナーのイメージは、私たちに永遠の命を与えるために十字架上で苦しみ亡くなったイエスのイメージと重なり、イエスは私にとってのドナーであると思えるようになりました。
イエスが益々愛しくなると、ジョージとの間の喧嘩は途絶え、私たち夫婦の仲が良くなると、子供たちとの仲も良くなっていきました。

渡航臓器移植支援は、2009年、病院の大改装にともない、医療費がそれまでの1億円から2倍ほどに跳ね上がり、患者さんたちが、安い病院を求めて東海岸に向かうようになったところで終息を迎えました。

それから半年後、2010年5月、私は乳ガンの告知を受けました。私に思いもかけない形で移植支援という奉仕を与えられた神は、私の身に何が降り掛かるかをご承知で、この13年続いた奉仕のドアを閉じられたのだと、今にして思います。

がん告知は私の人生をひっくり返しました。狼狽し、もうこの世での時間は長くないのかもしれないと思いました。ならば、どう生きるべきか?間もなく死んで、天の父と出会うのであれば、もっと天の父がどんなお方なのか知りたい。そう考え、勤めていた学校区を退職し、聖書クラスと、教会と、そして癌闘病者支援に時間を注ぐことに決めました。
この決断は間違ってはいませんでした。今日に至るまで、私の信仰は強まり、大勢の人たちと友情を育て、深めてこれたからです。大勢の友に囲まれ、親切を受ける度、それはやさしい神様がいつも私のそばにいて、「愛しているよ。」と言ってくださっているように感じます。

臓器移植支援をしているときは、他の人たちのために奉仕していると思っていました。確かに、神は、私を用いられましたが、同時に、神が私に臓器移植支援を与えられたのは、私を待ち受けていた新しい敵、乳ガンと闘うための準備、訓練のためだったのに違いないとも思えます。

患者家族の皆さんの、新しい臓器を願う切実な思い、ドナーとドナー家族が払う大きな犠牲、機械に頼らず、自分で呼吸できるようになるときの喜び。。。これらを目撃し、全ては神の恵み、ギフトだと学んだ事。あってあたりまえのものなど何もないと学んだこと。イマニュエル(どんな時も一緒)と呼ばれる神は嵐は止められない。でも嵐の中を一緒に歩いてくださる。そして、死は終わりではないということーーーー移植支援で学んだ全てのことが、今日まで癌闘病の武器となり、心の糧となってきました。

全ては主の御手の中に

癌の告知を受けた当初、私は祈りの最後に、「貴方の御心がかないますように。」と言うことができませんでした。
神様は打ち出の小槌ではない。私たちは神の創造物で、神こそが私たちの主であるのだから、願いは託しても、最後は、私の思い通りに事を運んでくださいというのではなく、神様の計画が万全に成し遂げられるように、神様の願いが叶うように、と祈らなければならないと、学んでいました。でも、神の御心が私の願いと違っていたら。。と思うと、怖くて言えなかったのです。
すると、友達が、「それなら、『怖いから、力をください。』と、祈ったらよい。」と助言してくれました。

私は天地を創造された神は万能で、決して間違いは犯さないと信じています。ならば、そのお方が、敢えて私から癌を取り除かれないのであれば、「私の恵みは貴方の上に十分である。」とおっしゃるのであれば、私は自分の運命を受け入れる力が必要でした。
友達に助言を受けた日から、私は、
「神様、癌を治してください!でも、もし貴方の意志が私の願いと違うのであれば、この死の谷を下って行く力と勇気をください!」
と祈り始めました。そして、今日に至まで、私は、神が日ごとくださるその力と勇気に頼って生きてきました。

癌告知の半年前、私は特別な理由もなく、保険を今のカイザー病院保険に変えました。それまでの保険では、自己負担が10−20%ほどあったのですが、カイザー保険に変更したおかげで、私の癌治療の自己負担はほぼゼロです。私の使っている抗がん剤は1回分だけで$1万ほどかかりますから、保険を変えていなければ、大変なことになっていました。

癌転移を告知された2012年、私に2年間の寛解を導いた抗がん剤、パクリの名前を教えてくださったのは、この癌ブログにコメントを送ってくださり、以来メールのやりとりをするようになったDr. Mさんでした。高い代金を払って、セカンドを求めた医師たちではありませんでした。

昨年の結婚20周年記念日のときには、治療中だったにもかかわらず、棚からぼた餅式に念願だった聖地イスラエル旅行が実現しました。

今年の春、ジョージがリストラに会った時には、心ある方達からの驚くほどの援助金と聖書クラスを続ける場所が与えられました。

神様が与えてくださった奇跡、恵みを数えだしたらきりがありませんが、人生を振り返ってみると、神は、私が生まれる前からその手を私の上にかざしてくださっていたと思わずにいられません。

父は、原爆が投下された時、広島に駐屯していました。彼の部隊は朝礼のために外に出ていて、全滅してしまいましたが、彼だけが、建物の中で、まだ靴のひもを結んでいたのです。原爆から生き残ったものの、後遺症で1年間入院をよぎなくされ、子供は諦めなさいと言われたそうです。なのに、私は健康な体で生まれました!

育った家の隣が教会だったことも、アメリカに来たことも、ジョージと結婚したことも、臓器移植支援にかかわったことも、偶然だったとは思いません。全ては、私の犯す間違いも、癌になることもご承知だった神が、私の永遠の命の救済のために巧みに計画されたことだったのだと思うのです。

癌は成長を続け、治療の道は狭く厳しくなっています。荒れ狂う嵐の波を見たら、怖くてたちどころに溺れてしまいます。でも、神は、「恐れるな。勇気をだせ。貴方は私にとって尊い。私は決して貴方を一人にしないよ。」と、「死の影の谷」を一緒に歩いてくださることを約束してくださっています。そして、向こう側に着いたなら、病になることも、死ぬこともない新しい体を用意してくださっているのです。

今私は、「どんなときも貴方に栄光を帰す事ができますように。そしてベストの闘いをすることができますように。この世の最後、使徒バウロのように、『私はこの世のレースを完走した。そして、信仰を守り通した。』と言うことができますように。」と祈っています。全ては、私には愛しい天の父がいて、そして、その父はいつだって素晴らしいから!

主にありて。